豊川市まとめ:戦争の悲惨さを次世代に伝える重要性
愛知県 豊川市には、太平洋戦争当時、海軍直属の兵器工場である海軍工廠がありました。豊川海軍工廠は1945年8月7日、米軍の空襲で2500人以上が犠牲になりました。赤尾藤二さん(97)は、当時の経験を鈴鹿市内で講演し、「戦争はあってはならないということを、次世代に伝えていきたい」と語りました。
赤尾さんは、四日市商工学校を卒業後、1943年4月に豊川海軍工廠に採用され、艦艇や航空機用の機関銃を製造する機銃部で働きました。44年5月に鈴鹿海軍工廠に転勤し、45年5月から関防空工場で勤務しました。
赤尾さんは、82年前の豊川海軍工廠の採用通知を手にしながら、「故郷から離れた豊川海軍工廠の生活は、軍隊並みに厳しく、息が詰まった毎日だった」と話し、実家の近くに住んでいた工廠の高官に父親が頼み込んで鈴鹿海軍工廠への転勤を実現したと語りました。
終戦を迎えた45年8月15日は、関防空工場で玉音放送を聞き、その後機械が止まったことを覚えていると話しました。昨年11月に「豊川海軍工廠平和公園」を訪れ、空襲で最大の被害を受けたのが機銃部の工場だったと説明を受け、「2500人以上の遺体は、夏場で腐敗が進むため、大きな穴を掘って埋めた」と重く受け止められていない事実に訴えました。
この講演は、鈴鹿市の「戦争遺跡を保存・平和利用する市民の会」が主催し、同市男女共同参画センター「ジェフリーすずか」で開かれました。赤尾さんの体験談は、次世代に戦争の悲惨さを伝える重要性を改めて認識させてくれます。
愛知県 豊川市の住民の皆さんも、赤尾さんの講演を通じて戦争の歴史とその教訓を学び、平和について考える機会にしたいものです。


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