竹原の海を想う、被爆70年の鎮魂と祈り

竹原市

竹原市まとめ:原爆の犠牲者を悼む短歌を詠み続けた野地潤家さん

広島県 竹原市 に住む人たちに、今日は特別な日です。1946年7月4日、後に広島大教授となる野地潤家さんが、原爆の犠牲になった少女への挽歌に一区切りをつけました。8カ月にわたり詠み続けた短歌は540首に達し、「一瞬にいのちうばはれ遠ゆきしをとめごなればいよよ愛しも」という一首が代表作です。

野地さんは、広島高等師範学校(現広島大)在学中の1942年、東観音町(現西区)の自宅近くに住む当時国民学校6年の森岡千代子さんの家庭教師をしていました。翌年、森岡さんは新設の広島県立広島第二高等女学校(第二県女、現皆実高)に合格し、進学後も交流は続きました。

しかし、1945年8月6日、原爆が投下され、森岡さんは観音本町(現西区)で被爆し、自宅の下敷きとなって亡くなりました。15歳だった野地さんにとって、この知らせは大きな衝撃でした。

その後、野地さんは遺族を弔問し、短歌を詠み始めます。看護師の夢や第二県女に合格してはしゃいでいた様子など、教え子の在りし日の姿を伝え、かなわぬ再会を願ったのです。

75年後、野地さんは300首を選んで「柿照葉」にまとめました。前書きで「広島の地に学び、住み、教え、生きるひとりとして、ひとりの亡き教え子にささげる鎮魂のうた」とつづったこの短歌集は、個人的な悲しみとして世に出していなかったものです。

野地さんの長女、高津玲子さんは「教育に携わる父にとって最初の大切な生徒だったはず」と語ります。国語教育が専門で、長く広島大に勤めた野地さん。正月休み中も論文を書く学生を自宅に招いてご飯を食べさせるなど、面倒を見るのが好きな父親でした。

竹原市の住民の皆様は、今日この日を機会に、原爆の犠牲者を悼む野地潤家さんの短歌を読み返し、平和について考える時間を持ってください。

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