大村市に原爆投下後の長崎を重ねて考える

大村市

中島学さんは、80年前の8月9日、長崎原爆投下当時、諫早市にいた。被害が少なかった諫早や大村の駅まで負傷者を運び、救援活動を行った。中島さん自身も被爆した人々の悲惨な光景を目撃し、「地獄」と表現するほどの惨状だった。

特に印象に残っているのは、長崎市から標高100メートルぐらい上がった山の中腹にあった立派な中学校が鉄骨数本以外は全壊していたこと。爆心地周辺には国民学校や中学校、女学校があり、児童の9割が犠牲となった学校もあり、中島さんは「かわいそうでしたね」と語る。

戦争が終わった3日後、8月15日に長崎にいたことが判明し、家族は驚愕する。中島さん自身も放射線の影響か、生きる目的を失い、4年間何もする気になれず死んだような日々を送った。

20歳になった中島さんは農家を継ぎ、農協の指導員となり、ふるさとのために力を尽くした。1991年から14年間、四賀村の村長を務め、核兵器廃絶と平和実現を目指す村宣言も行った。

今でも中島さんは「戦争」や「長崎」の記憶が心に深く刻まれている。時々夢に見ることもあり、「うなされますよね」と語る。8月9日、長崎原爆投下から80年を迎え、中島さんも若い人たちに話し合いで解決して戦争を許さないことを願っている。

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