東近江市まとめ:百済寺で約100年ぶりに発見された織田信長の朱印状
滋賀県東近江市の百済寺で、約100年ぶりに織田信長の朱印状が発見されました。朱印状は縦31・0センチ、横43・6センチの文書で、信長が名乗っていた「弾正忠」の署名の上に初期の「天下布武」の朱印が押されています。
この朱印状は永禄11(1568)年9月22日付で、信長が足利義昭を将軍に擁立するため上洛する途中で発したものです。百済寺が新たな庇護者として信長に発給を依頼したと考えられます。
特徴的なのは、禁止事項だけでなく寺法や財産などの権利を保障する手厚い内容が盛り込まれている点です。また、信長が「祈願所」と定めたのも異例で、待遇は別格です。
百済寺は比叡山延暦寺に次ぐか匹敵する宗教都市で、経済や文化の一大集積地でもありました。勢力を取り込もうとする信長の姿が見て取れます。
この朱印状は昭和4年刊行の『近江愛智郡志』に百済寺所蔵として写真が掲載された後、行方不明になっていました。東近江市の市史編纂事業で平成19~21年度に百済寺を調査した際にも見つからなかったものです。
今回再発見に至ったのは、木地師について調査していた市が寺に関連資料がないか調査の協力を求めたことがきっかけでした。百済寺所有の古文書約千点を整理したところ、濱中亮成住職が木箱に入った朱印状を見つけたということです。
百済寺は「地上の天国」と称賛された宗教都市でしたが、4年半後の元亀4(1573)年4月に信長によって焼き打ちされました。反信長包囲網を形成していた六角氏と軍事的同盟関係を維持していたためです。
この朱印状は百済寺の絶頂期のもので、幻の宗教都市の様相が明らかになりつつあります。東近江市では広大な百済寺の森に最盛期の坊院が眠っているとして、多くの人を幻の宗教都市に誘いたいと話しています。
この発見は信長の暴虐な人物像を見直す史料にもなるでしょう。


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